寂しさと恋愛と。完結編

僕は「冬ソナ」のような純愛は全く信じていない。1人のひとに一生を捧げるのが真実の愛だ、なんて自分でこうして書いただけで歯が浮いてしまう。でも、「かけがえのない存在」というのなら分かる気がする。かけがえがない、というのは「簡単に代わりなんか見付からない」という意味である。

前回までは考えやすくするために色々と条件を変えてみたが、本質的なことはあまり条件に左右されないように思う。人間は一人一人価値観も考え方も全然違う。僕にだって好き嫌いがある。どんな人でも理解できるなんてわけがないし、絶対に受け容れられないタイプの人間だっているということは認めなければならない。しかし逆に、自分の全てを受け容れてくれる人、自分があっさりとと受け容れることが出来る人、というのは世の中に1人しかいないなんてことはないにしても、滅多にいるもんじゃない。だからそういう人との出会いは大切で、その人との恋愛が終わってしまうと簡単には立ち直れない。

自分を理解してもらう、相手のことを理解する、というのは「お互いが何かを共有できる」という言い方をしてもいいかもしれない。「寂しいから…恋愛」に僕が違和感を覚えるのは、「休日一緒に遊べる人がいた方がいいから」とか「傷心を癒されたいから」とかいう条件に関係なく、お互いがどれくらいのものを共有したり共感したりできるか、というのをよく確かめないままに(もしかしたら自分が相手と最低限共有したいものすら分からないままに)付き合い始めるトコロに理由があると思う。付き合いながら確かめればいーじゃん、という意見もないことはないだろうけど、それじゃやっぱり、エネルギーがねえ…。途中で、ああこの人はやっぱダメだ、と自分の都合だけで別れようとしても相手が簡単に言うこと聞かないだろうし、逆のパターンはもっとしんどい。まあ、「この人やないとアカン」と思って付き合い始めたところで、結局「この人とはもう続けられない」となることはあると思うし、そーなったら別れなきゃしょーがないかもとは思うけど、「寂しいから…恋愛」と「この人じゃなきゃ…恋愛」の間に、やっぱ違いはあるよねというのが結論。もちろん、どこまでが「寂しいから…恋愛」で、ドコからが「コノ人じゃなきゃ…恋愛」という線を引くことは、相変わらず難しいことではあるのだけど。

 

以下、独白。

 

僕は「言葉の力」というものを信じている。それは「言葉で表現できないことなんかない」とか「言葉を巧みに操れば相手の心を弄ぶことができる」とか、そういう意味でなくて、「自分が感じたり考えたりしたことくらいは言葉で表現できるはずだ」みたいなものである。それ以外に自分を表現する方法なんて限られている。僕にとって言葉は、人に自分を理解してもらう上で最も重要な手段なんである。

僕は、生とか死とか幸福とか恋愛とか人間って何だとか、抽象的で分かり難いなことばっかり考えてるクセに、寂しがりやなものだから理解して貰えないことに耐えられない、という我儘な人間だ。だったら責めて、いちばん分かりやすい表現を探すしかない。分かって「もらう」ことが目的なんだから、小難しい単語なんか使えない。出来るだけシンプルな単語を組み合わせようとして「あーでもない、こーでもない」とひあつら悩んでる時間はかなり多い。だけど、「僕が本当にこう思っている」ということを表現した言葉には必ず説得力や真実味が出てくる、ということを信じているのだ。

しかし当たり前だが、いつでも誰でも100%ってわけにはいかない。「何言ってんのか分かんない」「言ってることの意味は分かるけど…何か実感湧かないね」という反応しか返ってこない人も多い。だけどそうやって獲得した言葉が、相手に上手く伝わったときは嬉しい。伝えたいことが伝わるってのは、快楽だとさえ思う。そして稀に、自分の言葉が、次から次へ、スルスルと吸収されていくのを感じられる人がいる。僕にとって「かけがえのない人」というのはそういう人だ。逆にそういう人なら、僕にとっても受け容れるのはそれほど苦労しない。元々の人生観や価値観が似ているということだから。そんなわけで僕には、「一目惚れ」はムリだけど「一日惚れ」ということならあり得る。

あとは、その人と共有できるモノを増やしたい。そういう人となら、一緒に美味いもんを食ったり、キレイなモノを見るだけでも何かが伝わる気がする。共通の趣味があれば嬉しい。逆に自分の好きなことに向こうが興味を持ってくれたり、自分がそれまで関知していなかった楽しみ方を向こうが教えてくれたりすると、なお嬉しい。それが僕の、僕による、僕のための恋愛スタイルなんだと思う。きっとね。


寂しさと恋愛と。その3

前回の到達点は、個人的に大切な何かを持っていて、そこに多くのエネルギーを費やしたい人は、「とりあえず…恋愛」に必要なエネルギーをセーブするのではないかということであった。もちろん、その逆までが真だというわけではないはずだが。

でもだからと言って、喩え自分が人生を賭ける程の何かを持っている人だって、やっぱり恋人が欲しいと思うことくらいはあるはずだ。だけど「傍に居てくれるなら、自分を好きでいてくれるなら、誰でもいい」ってわけにはいない。だから…だから!相手を選ぶ必要が出てくるのだな。

そういう人達は、楽にお互いを理解し合えるような人、認め合えるような人となら、恋愛してもいいと考えている、ということではないのだろうか。

ということは。そういう人ほど、好みのタイプがはっきりしてくるんじゃないかと思う。いくら外見が良くてもそれだけじゃダメ。どんなに優しくて思いやり精神に溢れてても、それだけじゃダメ、みたいな。恋愛に費やせるエネルギーが限られてるからこそ、人生観や価値観が似てるとか、自分の型にピッタリとハマる人(さすがに初めから相手のことが全部分かるわけじゃないので、少なくともそう感じられる人)じゃなきゃ、恋愛なんてする気になれない、と。そういう人達は多分、恐らく、もしかして…「この人じゃなきゃいけない」と、言うのではないかな。

ので、あらためて僕は「この人やないとあかん」思っていいらしい。正直な話、「とりあえず寂しさを埋める」ことと、「この人じゃなきゃいけない」ということの違いが今一つ分からないことに気づき、自分の恋愛観に疑問を持ってしまったのだ。もしもこの二つの違いが、僕の知人が言っていたように「『さびしいから・・・恋愛』と『この人じゃないと・・・恋愛』は、きっかけの違いでしかない」としたら、今好きな人を諦めて、とりあえず近くで付き合える人を探した方が人生設計として合理的なんでないかと。

だけど、色んなパターンや、友人・知人から聞いた話をもとにしつつ、三日三晩うんうん唸りながら考えて、ようやく僕の頭の中から自分の恋愛観を説明できる言葉が紡ぎ出されてきたわけであるが、それはまた次回。

 

 

 

そもそも「寂しい」って、どういうことなのか

まさかイブの夜にこんな内容の記事をアップすることになるとは。。。何の因果だろうか。苦笑 けれども、7年前の僕が考えていたことは、今読みなおしても結構いい線をいっている。笑 というわけで、以下は本家ブログの2004年9月4日の記事から。 

「寂しい」というのはどういうことだろうか。「一人じゃ、寂しい」というのはさすがに当たり前だが、別に一人じゃなくて友達に囲まれていても、あるいは恋人がいたにしても、何となく「寂しい」と、感じてしまうことは大いにあり得るように思う。実存主義者だったら、「そんなのは当たり前で、人は本来孤独なものだ」と言うかも知れないが

人は言語を発達させ、社会生活を営むように進化することで生存競争に勝ち残ってきた。だから、(衣食住が保障された状況においては)社会動物としての本能的な欲求が前面に出てくるのは当然ではないかと思う。支配欲、権力欲、独占欲なんかも社会的欲求に入るだろう。しかし恐らく、その中でもいちばん根本的なものはといえば「人に理解されたい」、その次が「人に必要とされたい」ってことだろうと思う。そしてこの二つのいずれか或いは両方が満たされていないとき、人は寂しさを感じる、と考えていいんじゃないだろうか。恋人に対して隠し事をしている人は絶対に満たされないし、自分で何でも出来てしまう人と付き合っていると、「あなたに自分なんか必要ない」という満たされぬ思いに駆られてしまう。というわけで、相手にとって必要とされる(Give)と、相手に理解してもらえる(Take)のバランスが上手く取れている状態が、まあ理想の恋愛なんでしょう。ってソレじゃあ一般論的すぎるか。。。じゃあもう少し掘り下げてみよう。

とりあえず「相手に必要とされる」には、自分の資質や魅力をひたすら磨いてくしかないような気がする。「ううん、そのままでいいの」なんて言われた日にゃそりゃもう有頂天だけど、そんなこと言ってくれる人に出会うには余程の運が必要だと思われるので、期待していいことではないだろうしね。

問題は、「相手に理解してもらう」って方だ。「全てを受け容れてもらえる」って言葉では12文字しかないけど、実際にはなかなか難しい。普通人間は、対する相手によって出てくる自分が違う。親に対する時の自分、友達と対している自分、職場の同僚や上司・部下と対する自分、それぞれ表に出てくる自分は同一ではないはずだ。「全てを受け容れられる」というのは、それらの少しずつ異なる自分を例外なく肯定してもらえる、ということのような気がする。「恋人に対するときの自分」が、「少しずつ異なる自分の中の一つ」に落ち着いてしまうようでは、長続きは難しいと思う。

しかしモチロン、人には大抵、カンタンには他人に言えない何かがある。付き合い初めからハート全開おっぺけぺー、という人間はまず間違いなく引かれる()。しかし「この人にこんなこと言えない」と「この人なら分かってもらえる」の間で揺れながら、少しずつ自分を知ってもらい、また相手を知っていくという過程が繰り返されれば、お互いの人生にとって必要不可欠なって、まだそこまで経験してないから、断言できないけど、そんな気がする。

 

 

寂しさと恋愛と。その2

 

前回と逆のケースを考えてみたい。それは「付き合ってないけど寂しくはない」というパターンだが・・・まずあり得ないだろうな。

しかしながら、「ヘタな人と付き合うよりも一人の方がマシ」という選択をしている人ならば、かなりいると思う。遠距離になってからもずっと続いてる人とかも。つまり、敢えて「寂しさに耐える・寂しさを受け容れる」という選択をしている人だ。こういう人たちと「寂しさに流される」という人達との間にはどんな違いがあるのだろうか。単純に個人の強さ・弱さの問題だろうか?また、遠距離でも続くってことはそれだけ二人の愛の絆が強いということで、敬意を表しておけばよいのだろうか?…何だか少し、説得力に欠ける気がする。もちろんそういう理由がある人もいるんだろうけど、多数派ではないよなあ、多分。

異性に対する魅力がないわけではないのに一人でいる人には、基本的にどのような背景があるのだろう。マズ何より、恐らくそのような人達にとっては「恋愛=コスト」だってことが言えるのかな。二人の異なる人間が共に時間を過ごすのはかなりのエネルギーを要する。自分の要求を相手に伝えなければならないし、同様に相手の要求は無視するわけにもいかない。「何も言わなくても分かり合える二人」なんてのは殆ど幻想に近い奇跡だと言っていいと思う。

いやしかし、そもそも恋愛にはエネルギーが要る、というのは当たり前か。ということは要するに、「魅力があるのに一人でいる人」には、「とりあえず誰かが傍にいる」ことよりも大切な何かがあって、ソレをおろそかにしてまで恋愛にエネルギーを費やしたくない、ということなのか?まあそこまで極端ではないにしても、少なくとも遣り甲斐のある仕事とか、「それをやってる間は毎日の嫌なことを全て忘れられる」というような趣味(もうちょっと他に言い方ないかなー。要するに全力で打ち込みたい何かとか、スゲー楽しい何か)がある人は、一人でいることの寂しさに身を切られる思いをする必要がない、ということくらいは言っても良さそうだ。ならば遠恋も、二人がそういうものを持っているならば比較的少ない苦労で続けられる、ということになるのか。

 

この続きはまた次回にしよう。ところで昨日から気になり出したんだけど、そもそも「寂しさ」って何なのだろう?

 

・・・続きはまた来週。

 

寂しさと恋愛と。その1

2004年の9月に、本家のブログで書いたこと。今読み返してみると、まるで嫁に会うために一生懸命準備していたみたいだ。笑 当時単身アメリカに乗り込んでいた僕が、周囲の恋愛話を見聞きしているうちに、「傍らに誰もいないのは寂しいから誰かと付き合う」ことと「その人のことが本気で好きだから付き合う」ということに間には、具体的にどういう違いがあるのかということを、書きながら考えた記録だ。当時のブログによると、何と3日間にわたって思索は続いている。というわけで今日は、その第1回目である。なお、こちらのブログは週1で更新する予定なので、続きは来週である。

 

僕のそもそもの疑問は、「誰もいないと寂しいから付き合う」ということと、「その人が本気で好きだから付き合う」ということが本質的に異なるものなのかどうかということである。何となくこの二つは同じではない気がする。前者は何となく「付き合ってくれるなら誰でもいい」というニュアンスがあって、後者は「この人じゃなきゃダメだ」という感じだ。だがこの二つの境界線は、曖昧であるような気もするのだ。

では二つの相違点より先に、共通点について考えてみる。「付き合ってくれるなら誰でも」「この人じゃなきゃダメ」いずれにしても一人でいることの寂しさから解放されるということだ。…でも待てよ? 

人間一人じゃ寂しいのは当然として、では、「付き合ってるのに寂しい」という状態はあり得ないのだろうか。…悔しいけれど事実と認めざるを得ない格言があった。「遠くの好きな人より、近くの優しい人」。やっぱ人間人肌恋しいもん。どれだけ好きでも遠く離れてしまったら、その場で我が身を預けられる相手に流れてしまうという例は、決して少なくない。僕だって我が身一つでアメリカに乗り込んでいるのである。ちょっとカワイイひとにアタックされたら、頑として撥ね付けるなんて自信はない。責めてキープはしたい。笑

では遠距離の他に、そういうケースはあるだろうか。って、笑。相手が近くにいるのに寂しさを感じてるなら、別れるべきなんだろう。逆に相手に不満がありつつも続いているということは、お互い付き合っている相手に何らかの価値を見出しているということだろうか。それは外見とかSEXかも知れないし、共に過ごした時間や思い出かも知れない。少なくとも、自分が生きてきた足跡みたいなのを共有できる相手というのは、人生においてかなり重要な気がする。ということは…

「何となく始まった恋愛でも、努力次第でそこまではたどり着けてしまう」ということなのだろうか?

・・・続く。

自殺について

2004年8月。初めてブログにシリアスな話題を書いた。学部生時代に学習塾でバイトをしていたんだが、そのときの教え子だった青年が、踏切で電車にはね飛ばされて亡くなる、という事故が起こった。目撃情報によると教え子は遮断機の下りた踏切の前で一旦止まったあと、再び発進して踏切内に入っていったらしい。

以下は、そのときに僕が書いたことだ。2004年8月15日に。

 

彼の両親は離婚していて,彼の中高時代,家の中はいつもメチャクチャに散らかっていた。彼の姉は、亡くなった弟が一番傷ついていたかもしれない、と言っていた。離婚の原因は知る由もないが、父親は再婚して神戸に住み、母親はひとりで暮らしている。家には姉が、母を絶対家に入れるなという父との約束のもとで、一人で暮らしていた。彼はいつもふてくされて、何もおもしろいことがない、と言っていた・・・

痛みに胸を貫かれる。しかしだからと言って、何かを批判したり誰かを責めたりしても仕方がなく、せいぜい自分はどう生きるかくらいしか考えられない。彼の死が実際に自殺だったとしても、「彼は不運だった」としか言いようがないんである。もちろん不運だったというのは家庭問題が複雑だったことではなく、「何も面白いことがなかった」ことだ。彼には、何もなかったのだ。尊敬できる人や人生の楽しみ方を身をもって示してくれる人との出会い、我を忘れる程の感動や興奮、そういった事が、彼には何も起こらなかったのだろう。

ふと,ハムレットの有名な一節を思い出す.「To be, or not to be: that is the question...」生か死か、それが問題だ・・・という例の場面である。続けて、ハムレットはこんな意味のことを言う。

「この世には辛く苦しい事ばかりだ。死ねば楽になれるのに、なぜ人は生に執着するのか。死とは要するに眠りに落ちるようなものではないか。それでも人が自ら死を選ばないのは、死から戻ってきた者がいないゆえに誰も死後のことが分からず、分からぬゆえに恐ろしいからだ。」

そんなハムレットに共感する人もいるかも知れない。しかし・・・

だけど僕が死にたくないのは、どう対処していいか分からなくなる程の歓喜や興奮や感動を、何度も経験しているからだ。車を飛ばして食べに行った北海道の寿司や讃岐のうどんや名古屋のひつまぶし、伊勢湾の朝日、日本海に沈む夕日、好きな人と日が昇るまで見続けた小樽の漁火・・・そういう瞬間を、僕はもう一度,いや、何度でも体験したい。死んでしまったら、二度とできない。だから絶対に死にたくない。

僕の幸運は、尊敬できる人物が身近に二人いたことだと思う。僕は父親から「情報を集めて状況を把握し、出来る事は全部やる。諦めるのはそれからでいい」ということを学んだ。そしてもう1人は僕の弟だけど、彼からは人生の楽しみ方を盗ませてもらった。これを認めるのは少し悔しいのだが、弟は僕の2倍は人生を楽しんでいるだろうし、彼のトークはどんなに少なく見積もっても僕の5倍は面白い。

彼らのお陰で、僕は今の人生を楽しむことが出来る。父は僕が15の時に死んだ。母の再婚は結構なのだが父方の遺族が母に賛成しないため、幼少の頃に僕が世話になった人々はもうバラバラである。愛犬も少し前に死んでしまった。要するに僕の実家はもはや家そのものが残っているだけで、僕にとって心の拠り所というか、帰るところがあるのかどうか、正直疑わしい状況である。しかしそういう境遇と、今を楽しめるかどうかというのは別の問題なのだ。

ジム・ロジャースという人がいる。彼は一国の予算を軽く上回る程のお金を動かせる投資家で、世界中をメルセデスのバイクで走り回りながら、通りがかった国で「この国は買い」と思ったらそこの主要企業に投資していく…という、とんでもなく楽しそうなコトをしている人である.その彼がインタビューで「あなたが人生で原則としていることは何ですか?」と聞かれて、こう答えた。

1.死なないこと

2.楽しむこと

3.世界を知ること

とてもシンプルで素敵なので、僕も採用させてもらっている。要するにパクッただけなんだけど。