寂しさと恋愛と。その1

2004年の9月に、本家のブログで書いたこと。今読み返してみると、まるで嫁に会うために一生懸命準備していたみたいだ。笑 当時単身アメリカに乗り込んでいた僕が、周囲の恋愛話を見聞きしているうちに、「傍らに誰もいないのは寂しいから誰かと付き合う」ことと「その人のことが本気で好きだから付き合う」ということに間には、具体的にどういう違いがあるのかということを、書きながら考えた記録だ。当時のブログによると、何と3日間にわたって思索は続いている。というわけで今日は、その第1回目である。なお、こちらのブログは週1で更新する予定なので、続きは来週である。

 

僕のそもそもの疑問は、「誰もいないと寂しいから付き合う」ということと、「その人が本気で好きだから付き合う」ということが本質的に異なるものなのかどうかということである。何となくこの二つは同じではない気がする。前者は何となく「付き合ってくれるなら誰でもいい」というニュアンスがあって、後者は「この人じゃなきゃダメだ」という感じだ。だがこの二つの境界線は、曖昧であるような気もするのだ。

では二つの相違点より先に、共通点について考えてみる。「付き合ってくれるなら誰でも」「この人じゃなきゃダメ」いずれにしても一人でいることの寂しさから解放されるということだ。…でも待てよ? 

人間一人じゃ寂しいのは当然として、では、「付き合ってるのに寂しい」という状態はあり得ないのだろうか。…悔しいけれど事実と認めざるを得ない格言があった。「遠くの好きな人より、近くの優しい人」。やっぱ人間人肌恋しいもん。どれだけ好きでも遠く離れてしまったら、その場で我が身を預けられる相手に流れてしまうという例は、決して少なくない。僕だって我が身一つでアメリカに乗り込んでいるのである。ちょっとカワイイひとにアタックされたら、頑として撥ね付けるなんて自信はない。責めてキープはしたい。笑

では遠距離の他に、そういうケースはあるだろうか。って、笑。相手が近くにいるのに寂しさを感じてるなら、別れるべきなんだろう。逆に相手に不満がありつつも続いているということは、お互い付き合っている相手に何らかの価値を見出しているということだろうか。それは外見とかSEXかも知れないし、共に過ごした時間や思い出かも知れない。少なくとも、自分が生きてきた足跡みたいなのを共有できる相手というのは、人生においてかなり重要な気がする。ということは…

「何となく始まった恋愛でも、努力次第でそこまではたどり着けてしまう」ということなのだろうか?

・・・続く。