強さよりは、賢さを。

20代前半くらいまでは、僕も欲しいと思っていた。「人と自分を比べたときに、傲慢にもならず、ヘコみもせず、単に「違い」を認識できる精神の強さ」ってやつが。もちろん、そんな強さは、人間には手に入らないのである。人は強くなる代わりに、賢くなることができる。

 

僕は心理学の本を読んで自尊心や自己愛というものが自己認識にどのような影響を与えるかを知り、哲学や歴史から人間が基本的にどんな生き物であるかを学んだ。それらの知識と、自分の経験から考えを巡らしているうちにハッキリしたことは、僕も他人も、みんな自分のことを特別に考えがちだということである。僕は別に、必ずしも素直にまっすぐに自分や他人と向き合っているわけではない。ただ、今の僕は知っているんである。「人間は他者に対する自己の優越性を信じたがる」という事実を。以下に、ラッセルの言葉を引用する。

 

ある人間を「ロマンティックだ」とか、「現代流だ」とか、「論理的だ」というように、1つの形容詞で分類しうるという想定は、そもそも最初から失礼である。当人は自分のことは神秘的で窺い難い深味を持っていると考えているくせに、自分以外の人は皆簡単に理解されうるなどという可能性は、統計学的にほとんどあり得ない。にもかかわらず、たいていの人々は自己の優越性に関する信念を身に付けてしまっている。他の全ての独善的見解の例に洩れず、それは世界を実際あるがままの興味深いものとしては見ない。他人を理解することは容易ではないが、その困難さを理解できない人間には、絶対に達成され得ない。

 

「自分は簡単に理解できるほど単純な人間でない」と思っていながら、「他人には勝手にレッテルを貼ってしまう」という傾向は、僕にもあるならば、アナタにもあるだろうし、彼にも彼女にも上司にも部下にもある。だがそういう傾向があるということを知ってさえいれば、他人に関して自分が見たり聞いたり感じたりしたことを疑うことが可能だし、他人に何かを言われたって、自分の一面に対する評価でしかない、と受け止めることができる。

 

別に僕は素直じゃない。ただすぐに信じないだけなんである。