自己矛盾について

学部生時代の後輩に、こんな奴がいた。

彼は飲み会などみんなが集まる場所ではいわゆる「バカ」をやる奴で、「アイツに何かさせればとりあえず笑える」という認識を誰もが持っていた。しかし飲み会の後でいつも、彼はこう漏らすのである。

「みんなオレを笑ってますけど、オレだって本当は色々深く考えてるんですよ…」

確かに彼は日本の地理や伝統文化に対して、半端なく造詣の深い奴だった。それはそれで感心したが…、

彼の中では「集団の中で存在感を発揮したい」と同時に「他人にバカにされたくない」という、相反する二つの欲求がぶつかり合っていたのだろう。飲み会で皆の期待に合わせて道化になるのが彼以外の何者でもないことは確かだ。しかし彼の中では「自分らしさ=物事を深く考えていること」であり、バカをやって笑われている自分は「認めることができない」んである。だが集団の中で存在感を失うのもまた不安であり、飲み会となると彼は再び道化となる。そしてまた「こんなのは本当の自分じゃない」と思い、それでも期待に逆らえずに道化になってしまう自分に嫌悪を感じる…

彼のような苦悩が極端までいくと、やがては飲み会には一切出てこなくなり、知的な話の出来る人間だけと付き合うようになる。要するに、「自分で思う自分」を認めてくれるような、都合のいい人間としか付き合わなくなってしまう。

そんな彼は、「他人を知らずに自分らしさに拘っている」タイプの典型である。彼が「道化の自分」を「バカにされている」と感じるのは、彼自身がそのような道化を一面的にしか見ずに「バカにしている」からである。彼が実は日本の伝統文化に造詣深い人物であるのと同様、彼以外の道化もまた、道化以外の側面を持っているはずだという事実が、彼には全く見えていなかったのだ。

もしも彼が「飲み会で笑われる人は必ずしもバカではない」という事実を悟ったならば、彼は「飲み会で道化となる自分」を、自分の一側面として受け容れることができるようになるだろう。そして更に、自分を「飲み会を盛り上げようとしてスベリまくってる」人と比較することができたならば、今度は彼自身の道化的な一面が、周囲の人にとって価値ある能力であることに気付くだろう。嫌悪していた自己の一面が、長所として誇れるものに一変するのだ。彼を苦しめていた「矛盾」は、もはや矛盾でなくなってしまうのである。

多くの人が、自分のある一面のみを以って「自分」を決め込んでしまう。しかし世の中の殆どの人間は、人が持ち得る性格的な一面のほぼ全てを持っているのである。他人を知らずに作り上げられた一面的な自己は、基本的にその一面以外の性質が表に出ている他人を軽蔑してしまう(自分を頭脳派と思っている人は、直感で行動するタイプを軽蔑し、逆に行動派は頭脳派をバカにする、というように)

そして、自分が軽蔑しているはずの人間と同じような感情を抱いたり、行動をとってしまったときに、自己矛盾が生じる。だが本人がいくら否定しようとしても、それは人間本来の性質の一部である以上、消し去ることはできないものだ。自分も他人も、人間はみな「多面的」であるという事実を受け入れることが、精神的な大人への一歩なのだろう。