「何のために生きているのか」と問われたら?

宇宙の中で地球という惑星が誕生したのがとてつもなく確率の低い偶然の積み重ねであり、またその地球上で生命が誕生したのもまた偶然、さらにその生命からヒトが進化したのもまた偶然である。理由や目的があって生まれたのではない。こんなスケールの大きい話にどれくらい説得力があるか分からないが、要するに僕が言いたいのは「人には生きる権利はあっても、義務はない」ということである。したがって、その道徳的な是非はともかく、自殺もまた権利の一つには違いないとは思う。そもそも、ラッセルの以下のような言葉に対して、有効な反論を見つけるのは困難だろう。

 

私が他人の時計を奪って海に投げ込めばそれは犯罪行為になるが、もし私が自分の時計を海に投げ込めば、せいぜい馬鹿者と思われるぐらいであろう。しかもその時計が壊れて使い物にならないものであれば、むしろ賢明な人間だと思われるだろう。私の時計について言えることは、私の命についても言える。私が他人の命を奪えば、他人のものを奪ったことになるが、自分の命を絶つことは、明らかに他人とはほとんど関係のない自分自身の問題である。

 

今回は自殺について書こうとしているワケではないので、話を元に戻そう。前回も書いたとおり、僕は死を恐れる。同時に自分がこの世界に存在することはどうやら許されているようであるし、また自殺を企てなければならないほど惨めな人生を送っているわけではないので、今の僕は生きることを選択している。

 といって、僕は何となく生きているつもりはない。同時に、自分の人生が僕以外の誰かや何かのためにあるとか、人生の意味や意義を見つけようなどと思っているわけでもない。生きることを選択するということは、寿命或いは何らかの偶然が僕の命を奪うまで、時間を潰さなければならないということである。そして時間を潰すなら退屈よりも楽しい方がいい。幸福な方がいい。

自殺については上記のように述べているラッセルだが、幸福については次のような言葉を遺している。

 

人間の幸福の大部分が、能動的な活動に依存しており、受動的な享受に派生する部分はごく僅かである。また、受動的な喜びでさえ、大部分の人間にとっては、それが能動的活動の合間にやってくる時にだけ、満足すべきものとなる。

 

要するに、楽しみたいなら自分から積極的に動きたまえ、ということだ。そしてある種の楽しみを覚えてしまうと、益々生きていたくなるものでもある。

確かに自分の力ではどうしようもないような不幸は起こる。だがそれでも、人生はやはり楽しめると思う。今回はラッセルの引用ばかりになるが、もう一つだけ。

 

十分な行動力と熱意のある人は、たとえ不幸に見舞われても、人生と世界に対する新しい興味を見出すことによって、その不幸を乗り越えていくだろう。その興味は、一つの不幸のために致命的になるほど制限されることは決してない。一つの不幸、いや数度の不幸によって敗北するのは、感受性に富むあかしとして賞賛されるべきことではなくて、バイタリティの欠如として遺憾とされるべきことである。

 

「べき」かどうかは微妙なところだが、基本的に賛成できる言葉だ。村上龍は、もっとシンプルにこう言う。

 

人生は、度重なる偶然と、それに対する自分の態度で決まる。

 

最後に、バイクで世界中を駆け巡っていた投資家、ジム=ロジャースの言葉を引用して、締めくくっておくことにする。あなたの人生における原則は何ですかと聞かれて、彼はこう答えた。

 

1.      死なないこと

2.      楽しむこと

3.      世界を知ること」

 

まあ大体これくらいの信念を持って、その通りに行動することができるなら、DNAにプログラムされている生存本能に逆らってまで死を選ぶ必要はないのだろう、と僕は思う。