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努力とあきらめ

僕はそもそも「幸福って何?」という問いは、適切ではないと思っている。それは「何か一つの条件が満たされれば人は幸福になれる」という前提がなければ成立しない。「○○さえあれば幸せ」なんてのは子供の考え方だ。お金さえあれば幸せかというとそんなことはない。仕事で成功してるのに不幸な人は沢山いる。結婚して子供が生まれれば幸せかというと、それも違う。「幸福な人生」なんて、非常に曖昧で捉えどころのない代物なのだ、ということは忘れない方がいい。

 だから正確には「どんなときに幸福を感じるか」と問うべきなのだ。あるいは、自分の「幸福な思い出」をできるだけ思い浮かべてみるべきである。例えば、友人と飲んでバカ騒ぎをやっているとき、その瞬間はそれを楽しいだけで幸福だとは思わないかも知れないが、それらは後に振り返ったときには「幸福な思い出」と呼べるものになっているだろう。幸福な人生を送るひとつの方法は、そのような「幸福な記憶」を出来るだけ沢山積み重ねていくことだと思う。結局のところ、それは自分の中にあるどんな欲求をどれくらい満たすか、ということを醒めた視点で考えてみることで可能になることなのかも知れない。

 

ラッセルは次のように言う。

 

 幸福は、ごくまれな場合を別にすれば、熟した果実ように、何の努力もなしに口の中へ落ちてくるような物ではない。大半の男女にとって、幸福は神様からの贈り物というよりは、努力の成果ほかならない。

 ・・・中略・・・ところで、諦めもまた、幸福の達成において役割を持っている。賢い人間は、防ぐことのできる不幸に対しては対策を講じるだろうが、どうしても避けることのできないような不幸のために時間と感情を浪費するようなことはしないだろう。また、避けることができる不幸でも、これを避けるために必要な時間と労力が、より重要な目的の追求の邪魔になるような場合には、これを甘んじて受けるだろう。

 

あなたにとって大切なことは、何であろうか。

図々しさを身につけろ

先週、僕は他人の好意は快く受け入れ、かつ他人の抱く関心や喜びに役立つ機会を与えようという態度を持っていることが重要だと書いた。これは要するに他人との関係において「GIVETAKEのバランスが取れている」ということだ。

人はどうしてもGIVEは良いことで、TAKEが良くないことだと考えがちである。だが一方的なGIVE(法外に高価なお歳暮とか)は、相手の中に「すまない・申し訳ない」という罪悪感を引き起こしてしまったりする。それは物に限らず、精神的な場合でも同じことだ。AとBの二者関係において、A⇒BのGIVEがB⇒Aのそれより明らかに大きい場合、BはAに対して畏敬の念を抱くかも知れないが、同時にAと過ごす時間が居心地の悪いものになることもあるだろう。最悪の場合、Bは自尊心を保てなくなってしまう。これは、明らかに幸福な人間関係ではない。

基本的に自己愛・自尊心が強くて完全主義的な人ほどGIVEに執着し、TAKEに罪深さを感じる。困った人を助けるのは当然だけれど、自分は人の助けなんか要らない、他人の迷惑にはならない…でもそんな生き方は、喩えいくら尊敬を集められたとしても、結局のところ身近な人に圧迫感を与えるだけである。なぜならばそれは、自分を他人より上位に置こうとする行為以外の何物でもないのだから。他人に自分と過ごす時間をリラックスして楽しんでもらえない人が、幸せになるのは難しい。

自己愛が内側に向かってしまうともっと悪い。一旦「自分には他人にGIVEできることが何もない」と思い込んでしまうと、他人からGIVEを受ければ受けるほど「何も返せない、何も出来ない、ああボクは何てダメなんだろう」という方向に意識が向かってしまう。こちらのケースでは上の場合とは逆に、他人と過ごす時間をリラックスして楽しむことが出来ない。同様に幸せは遥か彼方である。

GIVE=美徳、TAKE=悪徳という考え方は必ずしも正しくない。むしろ、相手のGIVEを素直に喜ぶTAKEは、GIVE側に少なからぬ満足感をもたらすことは、心に留めておいた方がいい。多くの人は大体小学校を卒業するまでに「自らを犠牲にして他人を助ける美談」を繰り返し聞かされたと思うが、その手の倫理や道徳観念からある程度自由になることを、僕は強く勧めたい。

「他人の幸せが、私の幸せです」

という態度は確かに立派だし尊敬するし素晴らしいと思うのだが、それを逆に考えれば自分の幸せだって、誰か他の人にとっての幸せになり得るってことだ。誰かが自分にGIVEしてくれた時は、彼()にとって自分はそれだけの価値があるのだ、と思ってTAKE「してあげる」くらいの図々しさは、あってもいいと思う。実際、相手が「ここはお返しをしておかないと気が済まない」と思っているときには、それを敢えて受け取って、相手の気を済まさせてあげた方が、理屈をこねて拒否するよりもよほど大事なことだったりするんである。

「相手のためを思って行動する」というのは、そういうことだ。単に、GIVEし続けることだけが、相手のためになるわけではないってことを、忘れてはいけないんである。

 

魅力について2

強い人間になろうとしていた過去の僕にとっては、当然、感情は「悪」であった。感情に左右されることなく、また感情を表に出すこともなく。それが強さだと思っていたから。だが、ちょっと周囲を見渡せば当たり前のことなんだが、感情を持たない人間などいないのである。だったら、他人が笑ったり泣いたり怒ったりしてるならば、自分もそうしていいのではないか。だとすれば、大切なのは感情を前提にして考え、行動するということではないのだろうか。

22歳の頃だろうか。僕はそういう風に考えるようになっていった。それまでは外的な要因と当人の反応だけを見て「アイツは間違っている」なんて一刀両断にしていたことでも、感情まで考慮に入れると「一概に正しいとか間違ってるとか言えない」ということになってくる。ということは、自分がそれまで正しいと信じてきたことは飽くまでも一つの基準でしかなかったのではないだろうか。僕は、単なる好き嫌いに論理の武装をかぶせていただけなのではないだろうか。

僕に感情があるならば、他人にもある。僕にも理性があれば、他人にもある。僕は僕の判断基準に沿って考えるけど、他人もまたそれぞれの判断基準を持っている…。人間みな同じなんてことは言わない。でも殆ど全ての人間が、人の持ちうる側面の全てを持つ、と考えることは間違っていないと思う。個性なんていうのは、言ってしまえばそれぞれの側面の程度の違いに過ぎないのだから。もちろん、その個々人の差異に重点を置いて考えなければならないこともあるけれど。

でも、こんなケースを考えてみよう。

僕は特別思いやりや親切心に長けた人間ではない。でも、それでも知らない人に道を聞かれれば教えてあげるし、それで礼を言われたりするとそれだけでも悪い気はしない。ということは、逆に僕が道に迷ったときは、見知らぬ人であっても、聞けばきっと教えてくれるだろう。つまり、僕が他人にしてあげられる程度のことは、他人だって僕にしてくれると期待していいことになるのではないだろうか。

そういう結論に達したとき、自分と他人との間に高く築いていた壁は、一気に崩れたわけである。何でも自分で解決しようして他人を遠ざけてきたことで、それまでどれほど損してしまったかを考えると悔しかったな。

だけどとにかく、そうして僕は他人を全く恐れなくなった。同時に、他人にとっても僕は親しみやすい人間に変わったはずである。

それで、ようやく魅力の話になるんだけど、魅力というのは卓越した忍耐力とか自制心なども確かに個人的な魅力の一要素にはなると思うんだけど、いちばん大切なのは「他人の好意は快く受け入れ、かつ他人の抱く関心や喜びに役立つ機会を与えようとしている」ということだと思う。そして僕の場合、そういう態度は自分を特別視する欲求を放棄することによって、かなりの程度得られたと思っている。無論僕は不完全なので、嫌いな人間もいるし、そういう相手が失敗すると心の中で「ざまぁ見やがれ!」と思ったりすることもある。でも、それくらいはまあいいでしょ。(笑)

 

今回も最後はラッセルで締め括り。

 

「幸福な人間」

幸福な人間とは、情熱と興味とを自己内部に向ける自己中心的な人ではなく、自己を外部の世界に適応させる努力を怠らない人である。また、客観的に考えて行動する人である。そして自由な愛情と広い興味をもてる人で、他人に愛情を分け、他人の愛情を快く受け入れる人である。

魅力について

成功した人間よりも、魅力的な人間になりなさい(A. アインシュタイン

さすがに、20世紀を代表する大科学者が言うと説得力ある。が、それはさておき。

自分のことを、他人とは違う「特別な人間だ」と信じている人はまずいないと思う。ところが、何か倫理的な問題になると、「(極端な言い方をすれば)他の誰がそのような行動をとろうとも、自分だけはやらない」という考えに取り憑かれてしまう人は少なくないんじゃないかと思う。或いは例えば、世の役には立ちそうもない研究をしてる研究者は沢山いるが、「社会の役に立つ研究をしなければ意味がない」みたいなことを言う理系の学生は少なくない。僕はそんな人に向かっていつも「じゃあ世の中の大多数の研究者には存在価値がないって思ってるの?」と問いかけることにしているのだが、返ってくる返事は「別にそーゆーワケじゃないんだけど…」ということがほとんどである。これもまた、「他人はどうあれ自分(だけ)は社会に役立つ(=人に認められる)ことをしたい、やらなきゃ意味がない」的な価値観である。

まあ僕も、そのような考えに頭のてっぺんかから足の爪先まで染まりきっていた時期があった。僕もまた、「完璧な人間」を目指して、強い人間になろうと思っていた。そうやって人の尊敬を集めたかったんである。自分に厳しく、他人には寛大であれ―――

でも、ある日ふと思ったんである。それは、「自分だけは神か仏でもないと我慢できない」ということではないのかと。それはもしかして、とんだ思い上がりではないのかと。自分が弱いと思う行動を自分には認めず、でも同じ行動を他人が取った場合は認めるって、実は滅茶苦茶に傲慢ではないのか。偉そうにもほどがあるだろう。自分がそんな特別な人間である可能性など、どれくらいあるというのか。

そう思ったときに、僕は強い人間になるのはやめることにした。実際のところ、自分が「弱さ」だと決め付けていた行為は、世の中の大半の人間がやっているのである。ということは、それは「弱さ」ではなく、「普通」なのだ。普通なことをいくら認めたところで、それを寛大とは言わない。言うわけがない。だから方針を変えることにした。

・他人が不完全なトコロは自分も不完全でよい。

それまでは自分を他人より上に置こうとしていた。それをやめて、自分と他人を同列に並べて考えるようにしたんである。これが出来るようになったのは人生で1、2を争う収穫と言ってもいいかもしれないが、逆にこんな簡単なことが出来なかった過去の自分が少々恨めしいとさえ感じる。何にしても、これは本当に大切な考え方なのだ。

例えば、笑い。

他人の失敗は笑える。でも自尊心の強い人は自分の失敗を笑われることを恐れている。自分が不完全だと思われるのが怖いからである。最悪、ミスを恐れて何もできなくなる。それは哀しい事態である。

自分が他人の失敗を笑うなら、他人にも自分の失敗を笑ってもらっていいんである。自分の失敗をすぐさま笑いに昇華してしまえる人は、失敗してもストレスをあまり感じない。むしろ話の種が増えた、とほくそ笑むこともあるくらいだ。そして魅力というのは、そういうところから生まれるものなんである。

次回へ続く。

理性の役割

 本能と理性の対立は、常に哲学上の問題になる。十八世紀の哲学は理性を優先させ、ルソー以降の19世紀の哲学は本能を優越させた。だが実際には、本能と理性との対立という観念は、大部分架空のものである。---バートランド=ラッセル

慎み深く、誘惑を排し、善を施す、克己的精神に満ち溢れた道徳的人物を「理性的」と思っている人は多いが、それは「道徳的」というべきだと僕は思う。確かに、道徳的な行為にも理性は介在するけれど、そのような行動の原因は理性そのものではない。実際に道徳的な行動を支配するのは、自分が所属する共同体から除け者にされはしないかという恐怖や、他人の尊敬を買いたいという自尊心である。もちろん、純粋にその人を助けたいという衝動に突き動かされることもあるだろう。いずれにせよ、行動の原動力は全て感情なのだ。理性は自分本位の衝動(食欲や性欲など)と、社会的な衝動とを調整しているに過ぎない。

ラッセルは言う。

 「理性」の完全に明白で正確な意味は、(理性は)われわれが達成したいと思う目的に対し正しい手段を選ばせることにある。

また、イギリスの経験主義者ヒュームは

理性は情熱の奴隷であり、またそれにとどまるべきである

と言っている。繰り返しになるが、行動の原動力となるのは、あくまでも欲望や情熱なんである。理性の役割は、その欲望や情熱を満たすためにどのような手段をとるべきかを決定することだ。だから「理性⇔感情」という図式は成り立たないのである。

 例えば、ある人が腹立ちまぎれに自分に損な事をすれば、その人は不合理だということになる。その時彼は、遙かに重要な他の欲望を犠牲にしているからこそ不合理なのだ。理性的な考え方とは、その時の偶然に一番強い欲望にだけ左右されるんじゃなくて、「自分が持つすべての欲望を思い出す習慣」のことだと言えるだろう。


幸福考1

「幸福」「幸せ」といった言葉はかなり曖昧なもので、例えば美味しいものを食べたり奇麗なものを見たりしたときに「こういう時に幸せを感じるよね」と言うときの幸せと、「色々あったが、それでも私の人生は幸せだった」と言うときの幸せとは全くレベルが違ってしまう。

また、「幸福は、何気ない日常のなかでふと感じるもの」とはよく言われることだが、少なくとも僕にとっては、それだけでは不足である。もし幸福と呼ぶべきものがそれ以外にないとしたら、「幸福になろう」という努力が意味をなさなくなるからだ。だが実際には、努力によって獲得できる幸福は存在するし、「幸福な人生」なるものを送ることだって不可能ではないはずだ。

とりあえず今回は、少し長いがラッセルの自伝的な文章を引用しておく。続きはまた次回。

私は、幸福のもとに生まれなかった。4歳までに私の両親は世を去った。子供の頃、私のお気に入りの賛美歌は、「この世に倦み、罪を背負いて」であった。5歳のとき私は、もし70歳まで生きるとすればまだ生涯の14分の1耐え忍んだにすぎない、ということを繰り返し考え、この先続く長い退屈は、ほとんど耐えがたいものに思われた。思春期には私は人生を憎み、たえず自殺寸前の状態にいたが、もっと数学について知りたいという欲望から、なんとか自殺を思いとどまった。

今では、反対に、私は人生を楽しんでいる。歳をとるにつれて、ますます人生を楽しんでいる、と言ってもよいくらいである。これは一部には、自分がいちばん望んでいるものが何であるかを発見し、それらを少しずつ手に入れてきたことによる。また一部は、望んでいるもののいくつかを、原理的に獲得不可能なものとして上手に退けてしまったことによる。しかし大部分は、自分自身に捉われなくなったためである。

多くの若者たちと同様、私も自分の罪、愚かさ、短所について思いをめぐらす習慣があった。私は、あわれな人間の見本のように思われた。

次第に私は、自分自身と自分の欠点に無関心になることを学んだ。そして徐々に注意を外界の事物に集中するようになった。たとえば世界の状況、様々な分野に関する知識、私が愛情を感じた人たちなどである。外界に対する種々の関心は、確かに苦しみの種になる可能性はある。世界は戦争に突入するかもしれないし、ある方面の知識はなかなか理解できないかもしれないし、友人は死ぬかもしれない。しかし、こういった種類の苦しみは、自己嫌悪から湧き出てくる苦しみと違い、人生の本質部分を破壊することはない。そして、対外的興味・関心は、例外無く何らかの活動を刺激・促進し、またそれらの興味が消えないかぎり、倦怠を完全に予防してくれる。反対に、自分自身に対する興味は、進歩的な活動に導くことは決してないのである。

「何のために生きているのか」と問われたら?

宇宙の中で地球という惑星が誕生したのがとてつもなく確率の低い偶然の積み重ねであり、またその地球上で生命が誕生したのもまた偶然、さらにその生命からヒトが進化したのもまた偶然である。理由や目的があって生まれたのではない。こんなスケールの大きい話にどれくらい説得力があるか分からないが、要するに僕が言いたいのは「人には生きる権利はあっても、義務はない」ということである。したがって、その道徳的な是非はともかく、自殺もまた権利の一つには違いないとは思う。そもそも、ラッセルの以下のような言葉に対して、有効な反論を見つけるのは困難だろう。

 

私が他人の時計を奪って海に投げ込めばそれは犯罪行為になるが、もし私が自分の時計を海に投げ込めば、せいぜい馬鹿者と思われるぐらいであろう。しかもその時計が壊れて使い物にならないものであれば、むしろ賢明な人間だと思われるだろう。私の時計について言えることは、私の命についても言える。私が他人の命を奪えば、他人のものを奪ったことになるが、自分の命を絶つことは、明らかに他人とはほとんど関係のない自分自身の問題である。

 

今回は自殺について書こうとしているワケではないので、話を元に戻そう。前回も書いたとおり、僕は死を恐れる。同時に自分がこの世界に存在することはどうやら許されているようであるし、また自殺を企てなければならないほど惨めな人生を送っているわけではないので、今の僕は生きることを選択している。

 といって、僕は何となく生きているつもりはない。同時に、自分の人生が僕以外の誰かや何かのためにあるとか、人生の意味や意義を見つけようなどと思っているわけでもない。生きることを選択するということは、寿命或いは何らかの偶然が僕の命を奪うまで、時間を潰さなければならないということである。そして時間を潰すなら退屈よりも楽しい方がいい。幸福な方がいい。

自殺については上記のように述べているラッセルだが、幸福については次のような言葉を遺している。

 

人間の幸福の大部分が、能動的な活動に依存しており、受動的な享受に派生する部分はごく僅かである。また、受動的な喜びでさえ、大部分の人間にとっては、それが能動的活動の合間にやってくる時にだけ、満足すべきものとなる。

 

要するに、楽しみたいなら自分から積極的に動きたまえ、ということだ。そしてある種の楽しみを覚えてしまうと、益々生きていたくなるものでもある。

確かに自分の力ではどうしようもないような不幸は起こる。だがそれでも、人生はやはり楽しめると思う。今回はラッセルの引用ばかりになるが、もう一つだけ。

 

十分な行動力と熱意のある人は、たとえ不幸に見舞われても、人生と世界に対する新しい興味を見出すことによって、その不幸を乗り越えていくだろう。その興味は、一つの不幸のために致命的になるほど制限されることは決してない。一つの不幸、いや数度の不幸によって敗北するのは、感受性に富むあかしとして賞賛されるべきことではなくて、バイタリティの欠如として遺憾とされるべきことである。

 

「べき」かどうかは微妙なところだが、基本的に賛成できる言葉だ。村上龍は、もっとシンプルにこう言う。

 

人生は、度重なる偶然と、それに対する自分の態度で決まる。

 

最後に、バイクで世界中を駆け巡っていた投資家、ジム=ロジャースの言葉を引用して、締めくくっておくことにする。あなたの人生における原則は何ですかと聞かれて、彼はこう答えた。

 

1.      死なないこと

2.      楽しむこと

3.      世界を知ること」

 

まあ大体これくらいの信念を持って、その通りに行動することができるなら、DNAにプログラムされている生存本能に逆らってまで死を選ぶ必要はないのだろう、と僕は思う。