魅力について2

強い人間になろうとしていた過去の僕にとっては、当然、感情は「悪」であった。感情に左右されることなく、また感情を表に出すこともなく。それが強さだと思っていたから。だが、ちょっと周囲を見渡せば当たり前のことなんだが、感情を持たない人間などいないのである。だったら、他人が笑ったり泣いたり怒ったりしてるならば、自分もそうしていいのではないか。だとすれば、大切なのは感情を前提にして考え、行動するということではないのだろうか。

22歳の頃だろうか。僕はそういう風に考えるようになっていった。それまでは外的な要因と当人の反応だけを見て「アイツは間違っている」なんて一刀両断にしていたことでも、感情まで考慮に入れると「一概に正しいとか間違ってるとか言えない」ということになってくる。ということは、自分がそれまで正しいと信じてきたことは飽くまでも一つの基準でしかなかったのではないだろうか。僕は、単なる好き嫌いに論理の武装をかぶせていただけなのではないだろうか。

僕に感情があるならば、他人にもある。僕にも理性があれば、他人にもある。僕は僕の判断基準に沿って考えるけど、他人もまたそれぞれの判断基準を持っている…。人間みな同じなんてことは言わない。でも殆ど全ての人間が、人の持ちうる側面の全てを持つ、と考えることは間違っていないと思う。個性なんていうのは、言ってしまえばそれぞれの側面の程度の違いに過ぎないのだから。もちろん、その個々人の差異に重点を置いて考えなければならないこともあるけれど。

でも、こんなケースを考えてみよう。

僕は特別思いやりや親切心に長けた人間ではない。でも、それでも知らない人に道を聞かれれば教えてあげるし、それで礼を言われたりするとそれだけでも悪い気はしない。ということは、逆に僕が道に迷ったときは、見知らぬ人であっても、聞けばきっと教えてくれるだろう。つまり、僕が他人にしてあげられる程度のことは、他人だって僕にしてくれると期待していいことになるのではないだろうか。

そういう結論に達したとき、自分と他人との間に高く築いていた壁は、一気に崩れたわけである。何でも自分で解決しようして他人を遠ざけてきたことで、それまでどれほど損してしまったかを考えると悔しかったな。

だけどとにかく、そうして僕は他人を全く恐れなくなった。同時に、他人にとっても僕は親しみやすい人間に変わったはずである。

それで、ようやく魅力の話になるんだけど、魅力というのは卓越した忍耐力とか自制心なども確かに個人的な魅力の一要素にはなると思うんだけど、いちばん大切なのは「他人の好意は快く受け入れ、かつ他人の抱く関心や喜びに役立つ機会を与えようとしている」ということだと思う。そして僕の場合、そういう態度は自分を特別視する欲求を放棄することによって、かなりの程度得られたと思っている。無論僕は不完全なので、嫌いな人間もいるし、そういう相手が失敗すると心の中で「ざまぁ見やがれ!」と思ったりすることもある。でも、それくらいはまあいいでしょ。(笑)

 

今回も最後はラッセルで締め括り。

 

「幸福な人間」

幸福な人間とは、情熱と興味とを自己内部に向ける自己中心的な人ではなく、自己を外部の世界に適応させる努力を怠らない人である。また、客観的に考えて行動する人である。そして自由な愛情と広い興味をもてる人で、他人に愛情を分け、他人の愛情を快く受け入れる人である。