魅力について

成功した人間よりも、魅力的な人間になりなさい(A. アインシュタイン

さすがに、20世紀を代表する大科学者が言うと説得力ある。が、それはさておき。

自分のことを、他人とは違う「特別な人間だ」と信じている人はまずいないと思う。ところが、何か倫理的な問題になると、「(極端な言い方をすれば)他の誰がそのような行動をとろうとも、自分だけはやらない」という考えに取り憑かれてしまう人は少なくないんじゃないかと思う。或いは例えば、世の役には立ちそうもない研究をしてる研究者は沢山いるが、「社会の役に立つ研究をしなければ意味がない」みたいなことを言う理系の学生は少なくない。僕はそんな人に向かっていつも「じゃあ世の中の大多数の研究者には存在価値がないって思ってるの?」と問いかけることにしているのだが、返ってくる返事は「別にそーゆーワケじゃないんだけど…」ということがほとんどである。これもまた、「他人はどうあれ自分(だけ)は社会に役立つ(=人に認められる)ことをしたい、やらなきゃ意味がない」的な価値観である。

まあ僕も、そのような考えに頭のてっぺんかから足の爪先まで染まりきっていた時期があった。僕もまた、「完璧な人間」を目指して、強い人間になろうと思っていた。そうやって人の尊敬を集めたかったんである。自分に厳しく、他人には寛大であれ―――

でも、ある日ふと思ったんである。それは、「自分だけは神か仏でもないと我慢できない」ということではないのかと。それはもしかして、とんだ思い上がりではないのかと。自分が弱いと思う行動を自分には認めず、でも同じ行動を他人が取った場合は認めるって、実は滅茶苦茶に傲慢ではないのか。偉そうにもほどがあるだろう。自分がそんな特別な人間である可能性など、どれくらいあるというのか。

そう思ったときに、僕は強い人間になるのはやめることにした。実際のところ、自分が「弱さ」だと決め付けていた行為は、世の中の大半の人間がやっているのである。ということは、それは「弱さ」ではなく、「普通」なのだ。普通なことをいくら認めたところで、それを寛大とは言わない。言うわけがない。だから方針を変えることにした。

・他人が不完全なトコロは自分も不完全でよい。

それまでは自分を他人より上に置こうとしていた。それをやめて、自分と他人を同列に並べて考えるようにしたんである。これが出来るようになったのは人生で1、2を争う収穫と言ってもいいかもしれないが、逆にこんな簡単なことが出来なかった過去の自分が少々恨めしいとさえ感じる。何にしても、これは本当に大切な考え方なのだ。

例えば、笑い。

他人の失敗は笑える。でも自尊心の強い人は自分の失敗を笑われることを恐れている。自分が不完全だと思われるのが怖いからである。最悪、ミスを恐れて何もできなくなる。それは哀しい事態である。

自分が他人の失敗を笑うなら、他人にも自分の失敗を笑ってもらっていいんである。自分の失敗をすぐさま笑いに昇華してしまえる人は、失敗してもストレスをあまり感じない。むしろ話の種が増えた、とほくそ笑むこともあるくらいだ。そして魅力というのは、そういうところから生まれるものなんである。

次回へ続く。