努力とあきらめ

僕はそもそも「幸福って何?」という問いは、適切ではないと思っている。それは「何か一つの条件が満たされれば人は幸福になれる」という前提がなければ成立しない。「○○さえあれば幸せ」なんてのは子供の考え方だ。お金さえあれば幸せかというとそんなことはない。仕事で成功してるのに不幸な人は沢山いる。結婚して子供が生まれれば幸せかというと、それも違う。「幸福な人生」なんて、非常に曖昧で捉えどころのない代物なのだ、ということは忘れない方がいい。

 だから正確には「どんなときに幸福を感じるか」と問うべきなのだ。あるいは、自分の「幸福な思い出」をできるだけ思い浮かべてみるべきである。例えば、友人と飲んでバカ騒ぎをやっているとき、その瞬間はそれを楽しいだけで幸福だとは思わないかも知れないが、それらは後に振り返ったときには「幸福な思い出」と呼べるものになっているだろう。幸福な人生を送るひとつの方法は、そのような「幸福な記憶」を出来るだけ沢山積み重ねていくことだと思う。結局のところ、それは自分の中にあるどんな欲求をどれくらい満たすか、ということを醒めた視点で考えてみることで可能になることなのかも知れない。

 

ラッセルは次のように言う。

 

 幸福は、ごくまれな場合を別にすれば、熟した果実ように、何の努力もなしに口の中へ落ちてくるような物ではない。大半の男女にとって、幸福は神様からの贈り物というよりは、努力の成果ほかならない。

 ・・・中略・・・ところで、諦めもまた、幸福の達成において役割を持っている。賢い人間は、防ぐことのできる不幸に対しては対策を講じるだろうが、どうしても避けることのできないような不幸のために時間と感情を浪費するようなことはしないだろう。また、避けることができる不幸でも、これを避けるために必要な時間と労力が、より重要な目的の追求の邪魔になるような場合には、これを甘んじて受けるだろう。

 

あなたにとって大切なことは、何であろうか。