理性の役割

 本能と理性の対立は、常に哲学上の問題になる。十八世紀の哲学は理性を優先させ、ルソー以降の19世紀の哲学は本能を優越させた。だが実際には、本能と理性との対立という観念は、大部分架空のものである。---バートランド=ラッセル

慎み深く、誘惑を排し、善を施す、克己的精神に満ち溢れた道徳的人物を「理性的」と思っている人は多いが、それは「道徳的」というべきだと僕は思う。確かに、道徳的な行為にも理性は介在するけれど、そのような行動の原因は理性そのものではない。実際に道徳的な行動を支配するのは、自分が所属する共同体から除け者にされはしないかという恐怖や、他人の尊敬を買いたいという自尊心である。もちろん、純粋にその人を助けたいという衝動に突き動かされることもあるだろう。いずれにせよ、行動の原動力は全て感情なのだ。理性は自分本位の衝動(食欲や性欲など)と、社会的な衝動とを調整しているに過ぎない。

ラッセルは言う。

 「理性」の完全に明白で正確な意味は、(理性は)われわれが達成したいと思う目的に対し正しい手段を選ばせることにある。

また、イギリスの経験主義者ヒュームは

理性は情熱の奴隷であり、またそれにとどまるべきである

と言っている。繰り返しになるが、行動の原動力となるのは、あくまでも欲望や情熱なんである。理性の役割は、その欲望や情熱を満たすためにどのような手段をとるべきかを決定することだ。だから「理性⇔感情」という図式は成り立たないのである。

 例えば、ある人が腹立ちまぎれに自分に損な事をすれば、その人は不合理だということになる。その時彼は、遙かに重要な他の欲望を犠牲にしているからこそ不合理なのだ。理性的な考え方とは、その時の偶然に一番強い欲望にだけ左右されるんじゃなくて、「自分が持つすべての欲望を思い出す習慣」のことだと言えるだろう。