「死」

僕にとって最初の身近な死は祖父でも祖母でもなく、父が白血病で他界した時のことである。自宅の仏間で親父の呼吸が停止したときは、何か特別な感情を抱くでもなく、真っ白になった親父の顔を見て「そんなものか」と思ったくらいであった。この時期の僕は外界に対する感受性をほぼ拒否していたから、という理由もあったかもしれない。

 だが葬式の後、火葬場での経験は、僕にとってある意味決定的なものだった。

親父の入った棺桶を火葬台に載せ、窯の中へ滑り込ませる。そして最後には誰かが「焼き」のスイッチを押さなければならない。同席した親戚や近しい人達の間から、「ここはやっぱり長男さんが」という声が上がったが、僕はその声が聞こえる前にすでにスイッチに向かって歩き出していた。「これからは自分がしっかりしなければ」という思いもなかったわけではないが、何よりも「こんな悲しく重苦しい空気はさっさと終わりにしたい」という気持ちが強かったのだ。

 そして僕がスイッチを入れると、グィーンという、バカでかい電熱線にバカ高い電圧が掛かる時の音がして、僕は思った。これで終わるんだ、皆がそれを眺めがら涙を流した親父の死顔。あれがこれで消えるんだ…。

 そして、数時間後――。

 きな臭いにおいの立ち込める中、窯から引き出された火葬台の上に横たわる「もの」を見て、僕は呆然としてしまった。

 そこにあったのは、「灰」だった。「灰」でしかなかった。数時間前の親父の体は真っ白で、冷たくて、微動だにすることもなく、間違いなく「死んで」いた。だがそれでも、ついさっきまでそこに生命が宿っていたことを察することは簡単にできた。それが…

 かろうじて人の形を留めては、いた。しかし完全に燃え尽きて、ボロボロに崩れてしまって、それがかつて生きていたことを示す証は、何も残っていない。生命の神秘ともいうべきものが、徹底的に破壊し尽くされていた。

 僕は、何か絶対にやってはいけないことをやってしまった気がした。すぐにでも目を背けたい衝動に駆られながら、それでいて目を離すことが出来なかった。

 …と、一つだけ、灰にならずにきれいに形を遺した骨が目に入った。体の位置で言うと首のあたりだろうか。ノドボトケの骨…?そう思ったときに、誰かが言った。

「他の骨が灰になってしもても、これだけ仏さんみたいに立っとるやろ?せやさかいノドボトケ言うんや――」

 

きな臭いにおい、燃え尽きた灰、その中に白く際立つノドボトケの骨…。

 

僕にとって、それが「死」である。死というよりは「死を象徴するもの」といった方がいいかもしれない。それ以来、何か身近に死が起こったり、死について考えようとするとき、僕の頭には必ずこの三つが鮮明に甦る。そして、思う。やはり自分がこうなってしまうのは恐ろしい、と。

知識とか技術とか比較優位とかいうことについて

村上龍の「最後の家族」で、妹の知美が、元引きこもりの宝石デザイナー近藤の話を聞いている場面で、ソリティオ・ブルガリのエピソードが出てくる。

ブルガリはギリシャに生まれ育ったが、戦禍を逃れるために亡命し、いくつかの国を転々とした後、イタリアのローマで今じゃ誰もが知っている有名ブランド「BVLGARI」を創業したわけなんだけど、どうして彼が成功したか分かる?と聞かれて、知美は「頭が良かったから?」と答える。それに対して近藤は「それもあるだろうけど、もっと大切なことがある」という言葉に続けて、言う。

 

「優れた知識や技術があれば、世界中ドコへ行こうが生きていけるってことだよ。」

 

この台詞には大きく納得させられた僕。逆に言えば、知識も技術もない人は誰にでも出来るような仕事をするしかなくて、そーゆー仕事はキツいか、給料が低いということになる。だから何かを身に付けなきゃダメだとか言いたいわけではなくて、知識や技術があった方が人生は圧倒的に有利になる、というだけの話。

 しかしブルガリは例として極端過ぎるので、もう少し一般的なレベルで考えてみよう。

 経済学には「比較優位」という言葉がある。例えばアメリカでは飛行機を1機作るのに掛かる費用は1億円で、服を1着作る製造コストが100円だったとする。対してフィリピンでは飛行機は作れず、服1着の費用は200円だったとする。確かにアメリカは自国で服を生産した方が安いんだけど、それでも服を生産するのにかかる費用を全部飛行機の生産につぎ込んで、上がった利益でフィリピンから服を買った方が儲けが大きい、というのが比較優位の原理なわけ。となると、フィリピンは衣服の生産技術においてアメリカに劣っていようとも、アメリカに繊維製品を売ることができることになるわけだ。

 同じことは、個人レベルでも言える。例えばビル=ゲイツが誰よりも速くタイピングを打てるとしても、秘書を雇ってタイピング業務を任せ、余った時間を新しいソフトウェアのアイデアを考えることに使った方が利益が大きくなるわけで。つまり、「これなら誰にも負けない」ほど優れた専門技術や知識が身に付いているわけじゃなくても、フィリピンの繊維工業のように「これなら僕にもできる」程度の知識やスキルがあれば、それは特定の他人にとって利用価値のある「商品」になるってこっちゃね。

 といって、「他人に金を払わせる」んだから、決して甘くないってことでもあるわけで。就職難な昨今、資格シカクってよく言われてるけど、資格は始まりでしかない。医師とか弁護士とか、それさえあれば食うのに困らないってのもあるけれど、そーゆー資格はまず取得が困難だし、逆に殆どの資格は、それだけでは「商品」にはならない。身近な例で言えば、「日本語教師」の資格だけではなかなか雇って貰えない、という話を聞く。ところが、「大学院を出た日本語教師」や、「○○時間以上の実務経験のある日本語教師」なら、結構海外の大学からオファーが来るんですってよ?僕も5年という歳月をかけて「博士号」なるものを取ったわけだが、博士号なんて研究者の入り口でしかない。ちゃんとしたアカデミックポジションをゲットできるかどうかは、その後いかに自分の腕と頭を磨くかに掛かっているのわけで。

 

「仕事がない」「就職できない」という言葉が巷に溢れる昨今だが、しかしこういう台詞を口にしている人々の多くは、「どんな仕事でもいいからやらせてください、でないと生きてイケないんです」というほど切羽詰った状況ではないんじゃないだろうか。でも「今の自分には何もない」と思うのなら、何かを身に付けるべく勉強し直した方が得だと思う。年齢的にと言ったって、仮に今26歳だったとして、二年間費やせば28歳。何もない26歳より、何かを身に付けようと2年間必死で努力を重ねた28歳の方が、有利に決まっているわけで。仮にその2年間は無給で、更に学費を支払うことになったとしても、結果的にはプラスではないかと思う。もちろんリスクはあるので、何かに時間やお金を費やしても失敗に終わる可能性だってあるんだが、それを言うなら僕も同じだ。そりゃ将来は不安だし、博士になったけど就職がねえー!って人も沢山いる世界だからね。

 

自己矛盾について

学部生時代の後輩に、こんな奴がいた。

彼は飲み会などみんなが集まる場所ではいわゆる「バカ」をやる奴で、「アイツに何かさせればとりあえず笑える」という認識を誰もが持っていた。しかし飲み会の後でいつも、彼はこう漏らすのである。

「みんなオレを笑ってますけど、オレだって本当は色々深く考えてるんですよ…」

確かに彼は日本の地理や伝統文化に対して、半端なく造詣の深い奴だった。それはそれで感心したが…、

彼の中では「集団の中で存在感を発揮したい」と同時に「他人にバカにされたくない」という、相反する二つの欲求がぶつかり合っていたのだろう。飲み会で皆の期待に合わせて道化になるのが彼以外の何者でもないことは確かだ。しかし彼の中では「自分らしさ=物事を深く考えていること」であり、バカをやって笑われている自分は「認めることができない」んである。だが集団の中で存在感を失うのもまた不安であり、飲み会となると彼は再び道化となる。そしてまた「こんなのは本当の自分じゃない」と思い、それでも期待に逆らえずに道化になってしまう自分に嫌悪を感じる…

彼のような苦悩が極端までいくと、やがては飲み会には一切出てこなくなり、知的な話の出来る人間だけと付き合うようになる。要するに、「自分で思う自分」を認めてくれるような、都合のいい人間としか付き合わなくなってしまう。

そんな彼は、「他人を知らずに自分らしさに拘っている」タイプの典型である。彼が「道化の自分」を「バカにされている」と感じるのは、彼自身がそのような道化を一面的にしか見ずに「バカにしている」からである。彼が実は日本の伝統文化に造詣深い人物であるのと同様、彼以外の道化もまた、道化以外の側面を持っているはずだという事実が、彼には全く見えていなかったのだ。

もしも彼が「飲み会で笑われる人は必ずしもバカではない」という事実を悟ったならば、彼は「飲み会で道化となる自分」を、自分の一側面として受け容れることができるようになるだろう。そして更に、自分を「飲み会を盛り上げようとしてスベリまくってる」人と比較することができたならば、今度は彼自身の道化的な一面が、周囲の人にとって価値ある能力であることに気付くだろう。嫌悪していた自己の一面が、長所として誇れるものに一変するのだ。彼を苦しめていた「矛盾」は、もはや矛盾でなくなってしまうのである。

多くの人が、自分のある一面のみを以って「自分」を決め込んでしまう。しかし世の中の殆どの人間は、人が持ち得る性格的な一面のほぼ全てを持っているのである。他人を知らずに作り上げられた一面的な自己は、基本的にその一面以外の性質が表に出ている他人を軽蔑してしまう(自分を頭脳派と思っている人は、直感で行動するタイプを軽蔑し、逆に行動派は頭脳派をバカにする、というように)

そして、自分が軽蔑しているはずの人間と同じような感情を抱いたり、行動をとってしまったときに、自己矛盾が生じる。だが本人がいくら否定しようとしても、それは人間本来の性質の一部である以上、消し去ることはできないものだ。自分も他人も、人間はみな「多面的」であるという事実を受け入れることが、精神的な大人への一歩なのだろう。

強さよりは、賢さを。

20代前半くらいまでは、僕も欲しいと思っていた。「人と自分を比べたときに、傲慢にもならず、ヘコみもせず、単に「違い」を認識できる精神の強さ」ってやつが。もちろん、そんな強さは、人間には手に入らないのである。人は強くなる代わりに、賢くなることができる。

 

僕は心理学の本を読んで自尊心や自己愛というものが自己認識にどのような影響を与えるかを知り、哲学や歴史から人間が基本的にどんな生き物であるかを学んだ。それらの知識と、自分の経験から考えを巡らしているうちにハッキリしたことは、僕も他人も、みんな自分のことを特別に考えがちだということである。僕は別に、必ずしも素直にまっすぐに自分や他人と向き合っているわけではない。ただ、今の僕は知っているんである。「人間は他者に対する自己の優越性を信じたがる」という事実を。以下に、ラッセルの言葉を引用する。

 

ある人間を「ロマンティックだ」とか、「現代流だ」とか、「論理的だ」というように、1つの形容詞で分類しうるという想定は、そもそも最初から失礼である。当人は自分のことは神秘的で窺い難い深味を持っていると考えているくせに、自分以外の人は皆簡単に理解されうるなどという可能性は、統計学的にほとんどあり得ない。にもかかわらず、たいていの人々は自己の優越性に関する信念を身に付けてしまっている。他の全ての独善的見解の例に洩れず、それは世界を実際あるがままの興味深いものとしては見ない。他人を理解することは容易ではないが、その困難さを理解できない人間には、絶対に達成され得ない。

 

「自分は簡単に理解できるほど単純な人間でない」と思っていながら、「他人には勝手にレッテルを貼ってしまう」という傾向は、僕にもあるならば、アナタにもあるだろうし、彼にも彼女にも上司にも部下にもある。だがそういう傾向があるということを知ってさえいれば、他人に関して自分が見たり聞いたり感じたりしたことを疑うことが可能だし、他人に何かを言われたって、自分の一面に対する評価でしかない、と受け止めることができる。

 

別に僕は素直じゃない。ただすぐに信じないだけなんである。

比べるということ

自分らしさに拘ろうとする人ほど他人を知らない。自分も随分長い間そういう時期があったので、気持ちはよく分かるのだが。

人はよく、自分と他人とを比較して苦悩する。自分に欠けているものを持った人に出会うと、その人の資質を羨み、妬み、素直に賞賛することのできない自分を醜いと感じる。逆に自分より何かができない人に出会うと、心の中でその人を軽蔑し、優越感に浸り、そしてそのような自分を醜いと感じる。他人なんか関係なく、ありのままの自分に自信を持てる人間になりたいと願う…。

だが、他人と自分を比べるというのは、そんなに良くないことなのだろうか。

僕に目から鱗を落とさせた言葉として、こんな例がある。

 

白人は黒人を見て初めて、自分達が白人であることを知った。

 

人間は飽くまで他人と比較しなければ、自分を知ることができないのだ。何かができる人に出会ったとき、自分はそれができないと知ることができる。何かができない人に出会えば、自分はそれができるらしい、と知ることができる。結局、多くの他人を知って自分を相対化できる人ほど、安定した自画像を持っている。なぜなら、そういう人は自分の限界を知ると同時に、他人の限界にも気が付くからである。

何でも1人でできる人間などいない。寧ろできることよりできないことの方が多くて当たり前なのが人間である。自分にはできて当然、大したことではないと思っているようなことでも、どんなに努力してもそれができない人はいる。逆に他人が当然の如くやってるようなものを、自分ができないからと言って気にする必要があるだろうか。

僕は尊敬される人間にはなりたくない。信用される人間になりたい。できないことは他人に任せ、自分ができることは責任を持って実行する。そんな人間とは、きっと、一緒に居て居心地がいいと思う。

塩野七生の本に、こんな言葉がある。

 

自らが凡人であることを悟った者は、既に凡人ではない。

 

僕がなりたいと思うのは、こういう非凡なる凡人だ。

コミュニケーションについて

「探求I」の冒頭で、柄谷行人は言う。

他者とのコミュニケーションは、『話す→聞く』関係ではなく『教える→学ぶ』関係である。

「言葉の全く通じない外国人」や「まだ言葉を解しない子供」を「他者」として考えてみて欲しい。そのような他者に自分の意思を直接伝達することは不可能で、その前段階として自分の扱う言葉一つ一つの意味を、彼らに「教え」、「学んでもらわ」なければならない。忘れてならないのは、自分の意思を理解できるかどうかは「他者」にとってはどうでもいい、ということである。砂漠で遭難してしまって喉が渇いてたまらないとき、偶然通りがかった遊牧民と出会えたとする。私は、自分が水が欲しいのだということを彼らに理解しえもらえなかったら死んでしまうが、彼らは私の言うことを理解することを諦めて立ち去ったところで、何の利害もないわけだ。つまり「教える→学ぶ」とは、学校の教室における教師と生徒のように、教える側が上位に位置するのではない。自分の意思を「他者」に教えて「あげる」のではなく、学んで「もらう」のである…

初めてこの文章を読んだとき、僕は衝撃を受けた。ガツンときた。

父親の病死とか友達の事故死とか、14歳の教え子が電車に飛び込み自殺とか、平均寿命80年を超える国の中で僕は結構身近に死を体験して、人の生き死にの問題を考えることが多かった。そんな僕にとって、周りの連中は何も考えてなさそうにヘラヘラ笑ってるだけのように見え、「こんな奴らに僕のことなんか分かるわけがない」と、傲慢に他人を見下してきた。だがこの「分かるわけがない」というのは、実際には「分かってもらえるなら話したい」ということの裏返しに過ぎないんである。そして、上の文章を読んだときに気付いたのだ。

「僕の言うことが通じなかったのはアイツらがバカなんじゃなくて、僕の表現がヘタクソだっただけだったのではないだろうか?」と。

「全く言葉の通じない外国人」とは次元が違うが、同じ日本語を話す者同士だって、実は似たようなものだろう。同じ単語一つとっても、個人個人で微妙にニュアンスや、カバーする意味の幅が違ったりする。要するに言葉はコミュニケーションにおいて最も重要なツールでありながら、非常に不完全で信用できないツールでもあるわけだ。だからこそ、自分の言いたいことを相手に分かってもらうためには、できるだけシンプルな言葉を的確に組み合わせなければならない。僕はそれまで、その努力を完全に怠っていたのだ。

自分が扱う言葉に注意深くなってみると、他人が使う言葉にも注意を払うようになってくる。そしてそれが、今度は他人の話を「聞く」ときにまた物凄く役に立ってくれる。

言葉に徹底して拘ること。僕にとっては、それがコミュニケーションの第一歩だ。

コミュニケーションについて


「探求I」の冒頭で、柄谷行人は言う。

他者とのコミュニケーションは、『話す→聞く』関係ではなく『教える→学ぶ』関係である。

「言葉の全く通じない外国人」や「まだ言葉を解しない子供」を「他者」として考えてみて欲しい。そのような他者に自分の意思を直接伝達することは不可能で、その前段階として自分の扱う言葉一つ一つの意味を、彼らに「教え」、「学んでもらわ」なければならない。忘れてならないのは、自分の意思を理解できるかどうかは「他者」にとってはどうでもいい、ということである。砂漠で遭難してしまって喉が渇いてたまらないとき、偶然通りがかった遊牧民と出会えたとする。私は、自分が水が欲しいのだということを彼らに理解しえもらえなかったら死んでしまうが、彼らは私の言うことを理解することを諦めて立ち去ったところで、何の利害もないわけだ。つまり「教える→学ぶ」とは、学校の教室における教師と生徒のように、教える側が上位に位置するのではない。自分の意思を「他者」に教えて「あげる」のではなく、学んで「もらう」のである…

初めてこの文章を読んだとき、僕は衝撃を受けた。ガツンときた。

父親の病死とか友達の事故死とか、14歳の教え子が電車に飛び込み自殺とか、平均寿命80年を超える国の中で僕は結構身近に死を体験して、人の生き死にの問題を考えることが多かった。そんな僕にとって、周りの連中は何も考えてなさそうにヘラヘラ笑ってるだけのように見え、「こんな奴らに僕のことなんか分かるわけがない」と、傲慢に他人を見下してきた。だがこの「分かるわけがない」というのは、実際には「分かってもらえるなら話したい」ということの裏返しに過ぎないんである。そして、上の文章を読んだときに気付いたのだ。

「僕の言うことが通じなかったのはアイツらがバカなんじゃなくて、僕の表現がヘタクソだっただけだったのではないだろうか?」と。

「全く言葉の通じない外国人」とは次元が違うが、同じ日本語を話す者同士だって、実は似たようなものだろう。同じ単語一つとっても、個人個人で微妙にニュアンスや、カバーする意味の幅が違ったりする。要するに言葉はコミュニケーションにおいて最も重要なツールでありながら、非常に不完全で信用できないツールでもあるわけだ。だからこそ、自分の言いたいことを相手に分かってもらうためには、できるだけシンプルな言葉を的確に組み合わせなければならない。僕はそれまで、その努力を完全に怠っていたのだ。

自分が扱う言葉に注意深くなってみると、他人が使う言葉にも注意を払うようになってくる。そしてそれが、今度は他人の話を「聞く」ときにまた物凄く役に立ってくれる。

言葉に徹底して拘ること。僕にとっては、それがコミュニケーションの第一歩だ。