コミュニケーションについて

「探求I」の冒頭で、柄谷行人は言う。

他者とのコミュニケーションは、『話す→聞く』関係ではなく『教える→学ぶ』関係である。

「言葉の全く通じない外国人」や「まだ言葉を解しない子供」を「他者」として考えてみて欲しい。そのような他者に自分の意思を直接伝達することは不可能で、その前段階として自分の扱う言葉一つ一つの意味を、彼らに「教え」、「学んでもらわ」なければならない。忘れてならないのは、自分の意思を理解できるかどうかは「他者」にとってはどうでもいい、ということである。砂漠で遭難してしまって喉が渇いてたまらないとき、偶然通りがかった遊牧民と出会えたとする。私は、自分が水が欲しいのだということを彼らに理解しえもらえなかったら死んでしまうが、彼らは私の言うことを理解することを諦めて立ち去ったところで、何の利害もないわけだ。つまり「教える→学ぶ」とは、学校の教室における教師と生徒のように、教える側が上位に位置するのではない。自分の意思を「他者」に教えて「あげる」のではなく、学んで「もらう」のである…

初めてこの文章を読んだとき、僕は衝撃を受けた。ガツンときた。

父親の病死とか友達の事故死とか、14歳の教え子が電車に飛び込み自殺とか、平均寿命80年を超える国の中で僕は結構身近に死を体験して、人の生き死にの問題を考えることが多かった。そんな僕にとって、周りの連中は何も考えてなさそうにヘラヘラ笑ってるだけのように見え、「こんな奴らに僕のことなんか分かるわけがない」と、傲慢に他人を見下してきた。だがこの「分かるわけがない」というのは、実際には「分かってもらえるなら話したい」ということの裏返しに過ぎないんである。そして、上の文章を読んだときに気付いたのだ。

「僕の言うことが通じなかったのはアイツらがバカなんじゃなくて、僕の表現がヘタクソだっただけだったのではないだろうか?」と。

「全く言葉の通じない外国人」とは次元が違うが、同じ日本語を話す者同士だって、実は似たようなものだろう。同じ単語一つとっても、個人個人で微妙にニュアンスや、カバーする意味の幅が違ったりする。要するに言葉はコミュニケーションにおいて最も重要なツールでありながら、非常に不完全で信用できないツールでもあるわけだ。だからこそ、自分の言いたいことを相手に分かってもらうためには、できるだけシンプルな言葉を的確に組み合わせなければならない。僕はそれまで、その努力を完全に怠っていたのだ。

自分が扱う言葉に注意深くなってみると、他人が使う言葉にも注意を払うようになってくる。そしてそれが、今度は他人の話を「聞く」ときにまた物凄く役に立ってくれる。

言葉に徹底して拘ること。僕にとっては、それがコミュニケーションの第一歩だ。