知識とか技術とか比較優位とかいうことについて

村上龍の「最後の家族」で、妹の知美が、元引きこもりの宝石デザイナー近藤の話を聞いている場面で、ソリティオ・ブルガリのエピソードが出てくる。

ブルガリはギリシャに生まれ育ったが、戦禍を逃れるために亡命し、いくつかの国を転々とした後、イタリアのローマで今じゃ誰もが知っている有名ブランド「BVLGARI」を創業したわけなんだけど、どうして彼が成功したか分かる?と聞かれて、知美は「頭が良かったから?」と答える。それに対して近藤は「それもあるだろうけど、もっと大切なことがある」という言葉に続けて、言う。

 

「優れた知識や技術があれば、世界中ドコへ行こうが生きていけるってことだよ。」

 

この台詞には大きく納得させられた僕。逆に言えば、知識も技術もない人は誰にでも出来るような仕事をするしかなくて、そーゆー仕事はキツいか、給料が低いということになる。だから何かを身に付けなきゃダメだとか言いたいわけではなくて、知識や技術があった方が人生は圧倒的に有利になる、というだけの話。

 しかしブルガリは例として極端過ぎるので、もう少し一般的なレベルで考えてみよう。

 経済学には「比較優位」という言葉がある。例えばアメリカでは飛行機を1機作るのに掛かる費用は1億円で、服を1着作る製造コストが100円だったとする。対してフィリピンでは飛行機は作れず、服1着の費用は200円だったとする。確かにアメリカは自国で服を生産した方が安いんだけど、それでも服を生産するのにかかる費用を全部飛行機の生産につぎ込んで、上がった利益でフィリピンから服を買った方が儲けが大きい、というのが比較優位の原理なわけ。となると、フィリピンは衣服の生産技術においてアメリカに劣っていようとも、アメリカに繊維製品を売ることができることになるわけだ。

 同じことは、個人レベルでも言える。例えばビル=ゲイツが誰よりも速くタイピングを打てるとしても、秘書を雇ってタイピング業務を任せ、余った時間を新しいソフトウェアのアイデアを考えることに使った方が利益が大きくなるわけで。つまり、「これなら誰にも負けない」ほど優れた専門技術や知識が身に付いているわけじゃなくても、フィリピンの繊維工業のように「これなら僕にもできる」程度の知識やスキルがあれば、それは特定の他人にとって利用価値のある「商品」になるってこっちゃね。

 といって、「他人に金を払わせる」んだから、決して甘くないってことでもあるわけで。就職難な昨今、資格シカクってよく言われてるけど、資格は始まりでしかない。医師とか弁護士とか、それさえあれば食うのに困らないってのもあるけれど、そーゆー資格はまず取得が困難だし、逆に殆どの資格は、それだけでは「商品」にはならない。身近な例で言えば、「日本語教師」の資格だけではなかなか雇って貰えない、という話を聞く。ところが、「大学院を出た日本語教師」や、「○○時間以上の実務経験のある日本語教師」なら、結構海外の大学からオファーが来るんですってよ?僕も5年という歳月をかけて「博士号」なるものを取ったわけだが、博士号なんて研究者の入り口でしかない。ちゃんとしたアカデミックポジションをゲットできるかどうかは、その後いかに自分の腕と頭を磨くかに掛かっているのわけで。

 

「仕事がない」「就職できない」という言葉が巷に溢れる昨今だが、しかしこういう台詞を口にしている人々の多くは、「どんな仕事でもいいからやらせてください、でないと生きてイケないんです」というほど切羽詰った状況ではないんじゃないだろうか。でも「今の自分には何もない」と思うのなら、何かを身に付けるべく勉強し直した方が得だと思う。年齢的にと言ったって、仮に今26歳だったとして、二年間費やせば28歳。何もない26歳より、何かを身に付けようと2年間必死で努力を重ねた28歳の方が、有利に決まっているわけで。仮にその2年間は無給で、更に学費を支払うことになったとしても、結果的にはプラスではないかと思う。もちろんリスクはあるので、何かに時間やお金を費やしても失敗に終わる可能性だってあるんだが、それを言うなら僕も同じだ。そりゃ将来は不安だし、博士になったけど就職がねえー!って人も沢山いる世界だからね。