そもそも「寂しい」って、どういうことなのか

まさかイブの夜にこんな内容の記事をアップすることになるとは。。。何の因果だろうか。苦笑 けれども、7年前の僕が考えていたことは、今読みなおしても結構いい線をいっている。笑 というわけで、以下は本家ブログの2004年9月4日の記事から。 

「寂しい」というのはどういうことだろうか。「一人じゃ、寂しい」というのはさすがに当たり前だが、別に一人じゃなくて友達に囲まれていても、あるいは恋人がいたにしても、何となく「寂しい」と、感じてしまうことは大いにあり得るように思う。実存主義者だったら、「そんなのは当たり前で、人は本来孤独なものだ」と言うかも知れないが

人は言語を発達させ、社会生活を営むように進化することで生存競争に勝ち残ってきた。だから、(衣食住が保障された状況においては)社会動物としての本能的な欲求が前面に出てくるのは当然ではないかと思う。支配欲、権力欲、独占欲なんかも社会的欲求に入るだろう。しかし恐らく、その中でもいちばん根本的なものはといえば「人に理解されたい」、その次が「人に必要とされたい」ってことだろうと思う。そしてこの二つのいずれか或いは両方が満たされていないとき、人は寂しさを感じる、と考えていいんじゃないだろうか。恋人に対して隠し事をしている人は絶対に満たされないし、自分で何でも出来てしまう人と付き合っていると、「あなたに自分なんか必要ない」という満たされぬ思いに駆られてしまう。というわけで、相手にとって必要とされる(Give)と、相手に理解してもらえる(Take)のバランスが上手く取れている状態が、まあ理想の恋愛なんでしょう。ってソレじゃあ一般論的すぎるか。。。じゃあもう少し掘り下げてみよう。

とりあえず「相手に必要とされる」には、自分の資質や魅力をひたすら磨いてくしかないような気がする。「ううん、そのままでいいの」なんて言われた日にゃそりゃもう有頂天だけど、そんなこと言ってくれる人に出会うには余程の運が必要だと思われるので、期待していいことではないだろうしね。

問題は、「相手に理解してもらう」って方だ。「全てを受け容れてもらえる」って言葉では12文字しかないけど、実際にはなかなか難しい。普通人間は、対する相手によって出てくる自分が違う。親に対する時の自分、友達と対している自分、職場の同僚や上司・部下と対する自分、それぞれ表に出てくる自分は同一ではないはずだ。「全てを受け容れられる」というのは、それらの少しずつ異なる自分を例外なく肯定してもらえる、ということのような気がする。「恋人に対するときの自分」が、「少しずつ異なる自分の中の一つ」に落ち着いてしまうようでは、長続きは難しいと思う。

しかしモチロン、人には大抵、カンタンには他人に言えない何かがある。付き合い初めからハート全開おっぺけぺー、という人間はまず間違いなく引かれる()。しかし「この人にこんなこと言えない」と「この人なら分かってもらえる」の間で揺れながら、少しずつ自分を知ってもらい、また相手を知っていくという過程が繰り返されれば、お互いの人生にとって必要不可欠なって、まだそこまで経験してないから、断言できないけど、そんな気がする。